Words and Feathers

ボカロ・旅行記・夢日記などつれづれに。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Changing of the Unchanged

自宅で過ごす時間が増えてから、やたら空を眺めています。
仕事してる時は、窓の無いオフィスの中にずっといたし、
都会の中で、空を見上げたまま歩くのも難しいし。

空の様子の移り変わりって、見始めるとずっと見てしまいます。

雨降り雲

これは一昨日の午後、巨大な積乱雲が雨を降らせながら近付いてきたところ。

これで雨が降るかなーと思いきや、この雲は反れていってしまいました。

もう雨は降らないと思って、近所の人が犬の散歩に出掛けた途端、
別の雲が雨を降らせながら、町の上を通り過ぎて行きました(笑)。
そして、その後で見えた虹の欠片。

虹と飛行機雲

部分しか見えませんでしたが、飛行機と一緒に見えたから綺麗でした。

夕焼け空

その一時間後には、美しい夕焼け空になりました。
雨の後で冷たい風が吹いたせいで、今日は家の壁も熱くならなかったし、
とても良い夕暮れでした。

ちなみに、雨の写真は東の空、虹は南東、夕焼けは北西の空です。
丘のてっぺんの家(しかも田舎)なので、空はよく見えます。

ところで、昨日どういうきっかけだったか忘れましたが、
sasakure.UKさんの『ウタカタ永焔鳥』を初聴きして、
そう言えば手塚治虫の『火の鳥』を今まできちんと読んでなかったことを思い出し、
妹の部屋からゴソッと持ち出してきたのでした。
しばらくはこれを読みます。(←勉強しろ)



                     ※コメント非表示で美しいPVもご鑑賞下さいませ。↑
作詞・作曲 ささくれP
PV制作 HDLV

ここから下に何を書こうか、かれこれ二日間も考えて、
一旦書いたものを全部消したのですが、
曲の解説なんてそもそも出来ないので、考えを巡らせたことをそのままに。

この曲の元となった手塚治虫の火の鳥や、
あるいは不死に関する様々な神話・伝説について知らなくても、
お話によくあるパターンとして『死を恐れる余り我が身を滅ぼす』という、
人間の愚かさについての物語を読んだことはあるでしょう。
そしてこれまた判で押したように『限りあるからこそ生は美しい』という、
金太郎飴のような結論も頻繁に見かけると思います。

また何もフィクションに求めなくても、日々のニュースの中で、
人間の愚かさを端的に表すような事件はいくらでもあります。
そして、その愚かさに対して賢い人たちの批評や、
素晴らしい解説も多々紹介されています。

ただ、もしかしたら本当に大事なのは、
『限りあるからこそ生は美しい』と言う側へのインスタントな共感(イイネ!)よりも、
愚かさの限りを尽くした側の思考や情動を、
どこまで自分の内側でなぞることができるか、ではないかと思うのです。

死を恐れて、自分自身の生にしがみつこうとし、
何かを蔑ろにして攻撃に走る人の姿を目の当たりにする世界。
何も放射能絡みの社会運動だけではありません。
根本的な脳の構造として、恐怖は攻撃性を高めるように出来ていると、
確かEQ関連の書籍で読んだ記憶があります。
犯罪報道に対してすぐに「死刑にしろ」という反応が現れるのは、
それが自分の生活や生命を脅かすという恐怖に根ざした反応であって、
そのために抑制が難しく、過剰反応しやすいのだと思います。

恐怖を感じる相手に対して、共感しようとすることは非常に難しい。
(「共感」と「同意」は異なります、念のため。)
反対に、少しでも共感があると恐怖の念は小さくなります。
『ストックホルム症候群』という言葉をご存知の方も多いと思いますが、
少しでも感情の交流が生まれると、恐怖は理由なく減るのです。
もちろんこれは、現実的な脅威が小さくなることと同じではありません。
誘拐犯にシンパシーを抱いたところで、誘拐の被害者から危険が去る訳ではないので。
ただ、どのようなメディアから得られる情報も、
私たちの生活や生涯に対する不安を、これでもかと掻き立てていきます。
同じことに対する恐怖は、回数を重ねるうちに減じていくのですが、
毎日違う種類の恐怖のタネを植え付けられるような世界では、
その分だけ攻撃性が高められ、過剰な怒りを感じやすくなるのではないか。
そういう気がするのです。

自分自身が何かに強い怒りを感じるとき、その裏に恐れが隠れていないか、
自覚しておくのは意味のあることだと思います。
でなければ、怒りの対象を自分の世界から消去することに成功しても、
同じような恐れから、別の何かに怒りを感じることになりかねないからです。
恐怖は生物にとっては、危険を避けて生き抜くために重要な情動ですが、
人間の場合は恐怖が非論理的に増大する可能性があって、
結果、攻撃性が非合理的なレベルになり(生き抜くのに必要な量を超えて)、
最終的には自分の人生を壊していることがあるのです。

そして、恐怖と攻撃性を制御するひとつの手立てとして、
強い怒りを感じる対象と自分自身の間に、
何らかの感情的なコミットメントを作り出すために、
あえてその内面をなぞってみることが必要だと感じるのです。

河合隼雄と村上春樹の対談の中で、
「社会は『悪』についての正しい物語を必要としている」というような言葉があり、
本当にその通りだな、と読んでから10年以上経って実感します。
悪についての正しい物語とは理解しづらい、誤解を生みやすい言葉ですが、
例えば手塚治虫の火の鳥の中では、様々な悪徳が描かれるけれど、
もし作者が悪徳を断罪する側の意識でしか描いていなかったら、
あの作品は名作になり得なかったと思うのです。

というようなことを、ウタカタ永焔鳥は歌っている訳ではないと思いますが、
私が一番好きなフレーズは、

“まるで塵の様な 物語 みすぼらしくも愛してた”

というところです。
生命は塵のようにどこからともなく現れ、どこへともなく消えていきますが、
そこに意味があろうとなかろうと、何か愛情のような執着のようなものが、
私たちを現世に繋ぎとめていて、
それが消える時、本当の意味でこの世を去るのだと思います。


読んで下さった方、拍手して下さった方、有難うございました!
関連記事

*Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

Menu

W&F Counter

いらっしゃいませ!

番目のご訪問です☆

Posted Date

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Questionnaire

ブログの感想を教えてね♪          複数選択は連続投票でどうぞ。

コメントは管理者のみ表示です。

Search by a keyword

twitter

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。