Words and Feathers

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手段としての表現と目的としての表現

もう少しでブログ再開できそうな状況になってきましたが、
まだちょっと、時間が足りないので。
以前mixiで公開していた記事の再掲です。

ピアノ・レッスンという映画があって、実は一度しか見てないけど、
口をきくことのできない女性と彼女のピアノ、
そしてそのピアノを手に入れた男の話。
話せない彼女にとってピアノは感情を昇華するための大切な装置。
でも誰でもが、その音で彼女の心がわかる訳じゃない。
彼女の心を落ち着かせるためには必要だけど、
コミュニケーション装置としては不完全なもの。

単純な疑問だけど、なぜ彼女は言葉を使うことを避けたのだろう?
もちろん言語も不完全なツールに過ぎないし、
それでは自分の気持ちを表現しきれなかったのかも知れない。

でも例えば、私が日本語で一番自分を表現できるからと言って、
好きな人が日本語わからなかったら、相手の言葉を学ぼうとするよね。
それとも意固地に日本語で伝え続けたら、
言葉の意味がわからなくとも気持ちは伝わるんだろうか?
確かに自分のものでない借り物の言語で自己表現すると、
自分と、表現された自分の影との間の差が広がる感じがして、
やりきれない気持ちにはなるけれど。

伝えたいという欲求と、表現したいという欲求は、
反対方向に作用することもあるのかも知れない。
伝えることを優先すれば、表現において細かな妥協を強いられるし、
表現することにこだわると、相手の辞書にはない自分独自の言葉を使い始めて、
伝わる内容は減少してしまう、みたいに。

私なんかは表現よりは伝達を優先するし、そうするしかできないから、
表現に固執せざるを得ない人の気持ちは、本当にはわからない。
その表現から何かを読み取ろうとして、徒労を重ねるというところだと思う。



そんなことを、何度も作り直されるこの作品を聴いて時々考える。

以前のレンver.にはあった想う事へのかすかな希みのようなものが消えて、
もう、本当に届けることを諦めてしまったような哀しさがあります。
アペンドの声質に合わせてアレンジを変えたせいかな。


2011年4月16日 記
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